袖すりあうも他生の縁


昨日、東京に日帰り出張をしました。帰りの東北新幹線「はやて」の座席指定が取れず、こまちの車両の指定席に乗ることになりました。座席に行くと中年のご婦人が窓際に座っていて、私の席の足元に少し大きめのスーツケースがおいてありました。重いので棚に載せられないといわれるので、載せてあげました。
そのご婦人は缶ビールを買っていて、遠慮がちに飲もうとしていたので私もワインの小瓶を買って飲もうと思ってましたから「袖すりあうも他生の縁」、一緒に乾杯をしました。
仙台にお住まいということで名刺交換をし、いろいろとお話をしながら仙台まで来ました。帰りに、また飲みましょうと分かれました。
最近、電車に乗っても隣の方とお話をすることは殆どありません。若い方はメールに夢中、ご年配は寝ているか本を読んでいるか、ビジネスマンは、パソコンをいじっています。良いのか悪いのか他人とのコミュニケーションをとるのが中々難しい時代になってきたようです。
それに引き換え、私の子供の頃、父と汽車に乗ると相席の前の人に『どこから来たんですか』とか『何をしているんですか』とか市役所の戸籍課の役人のように聞いて、食べ物をあげたりもらったりしながら仙台から上野まで6時間位ずーっと話をしていたのを思い出します。
仙台-東京間が1時間40分位で着いてしまう現在。時間が短くなった代わりに人と人の心が遠くなったように感じました。

ことわざ「袖すりあうも他生の縁」の[他生][多少]と思い、意味も「知らない人でも袖がふれたのなら多少は縁があるでしょう」とばかり思っていたオーナーです。恥ずかし―い。
道行く知らない人と袖の触れ合うのも、前世の因縁による。ちょっとした出来事もすべて偶然のことではなく、前世からの因縁による、という意。」・・・・・三省堂実用ことわざの辞典より。

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